About☆河合夕子
プロフィール
河合夕子(かわい・ゆうこ)は1958年12月20日生まれ、愛媛県松山市出身。
私立済美高等学校在学中の76年に受けた「第1回ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」決勝大会(優勝は榊原郁恵)をきっかけにホリプロダクション(現ホリプロ)入り。
作曲活動やレッスンを続けながらデビューの時機を待ち、81年2月25日、EPIC・ソニー(現EPICレコードジャパン)から「東京チーク・ガール」でレコードデビュー。
テレビにも積極的に出演する傍らラジオでも活躍、ニッポン放送の「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」ではアシスタント(病気のため途中降板)を、FM全国ネットの「河合夕子のラブリー歌謡曲」ではパーソナリティーを務めました。83年にかけて9枚のシングルと3枚のオリジナル・アルバムを発表しています。
その後はソングライターとて楽曲を提供したり、ソニー系のアーティストのバックコーラスを中心にライブサポートやスタジオミュージシャンとして活動しながら、コミックのイメージアルバムやコンピレーションアルバムなど多数の作品にメインボーカルとして参加。現在はボーカル、ガイドボーカル、コーラス、コーラスアレンジ、ボーカルディレクション、ボーカルアレンジ、ボイストレーニング、作曲、新人CDプロデュースなど、ミュージシャンとして幅広く活躍しています。
*本サイトでは1981年から83年まで、EPIC・ソニーに作品を残した期間に絞って紹介しています。
“河合夕子サウンド”の背景
ホリプロ育ちの音楽ガール
母校・済美高校(現在) 1958年、愛媛県松山市に生まれ、小学校1年生からピアノを習い始めたという河合夕子は、私立の女子校(2002年より男女共学)だった松山市の済美高等学校音楽科へ進学。ここでクラシックの基本をきっちり身につけたそうです。
シンガー・ソングライターになる夢を持った彼女は、在学中の1976年、あるオーデションに挑みます。それが、後にアイドルの登竜門となる「第1回ホリプロ・タレントスカウトキャラバン」。河合夕子、17才の夏のことでした。
榊原郁恵デビュー曲
「私の先生」 地区予選大会を勝ち進んだ河合夕子は、9月の決勝大会に臨みますが、結局、ここでは榊原郁恵が優勝。しかし、音楽的才能を高く評価された河合夕子もホリプロにスカウトされます。ちなみに、この大会では荒木由美子もチャンスをつかみ、榊原郁恵と同じく翌77年にデビューを飾っています。
そして、高校卒業を待って上京。作曲やレッスンの傍らアルバイトにも精を出し、スカウトキャラバンから4年半後の1981年2月、ようやくシンガー・ソングライターとしてデビューを果たしたのです。
ポップなルックスと楽曲
デビュー曲は「東京チーク・ガール」。自ら手がけたキャッチーな極上ポップスを引っさげた登場でしたが、楽曲以上に注目されたのはそのルックスでした。
よく見れば美形なのに、アフロパーマに、当時一世を風靡したアラレちゃんメガネ。積極的にテレビにも出演、ポップな衣装に身を包み、人なつっこい笑顔で歌う姿は、どれをとってもこれまでのアーティストにはないものでした。
まだJ-POPという言葉が生まれていない頃。それまでのポップスとも、ニューミュージックや流行のテクノともひと味違うスタイルは評判を呼びます。中でも業界内の人気を集め、「東京チーク・ガール」はラジオや有線放送でのオンエアも追い風となってスマッシュ・ヒットしていったのです。
なお、この曲のヒットとホリプロ所属ということもあってか、河合夕子は81年の新人賞レースにも積極的に参加しました。「銀座音楽祭」「新宿音楽祭」「日本歌謡大賞・新人まつり」「ABC歌謡新人グランプリ」などにエントリーされましたが、あと一歩のところでノミネートや受賞を逃しています。
普遍的な名曲ぞろい
くるくるアフロにまんまるメガネで、ちょっとコミカルでトロピカルな歌を歌う女の子—それが河合夕子のパブリックイメージですが、彼女の音楽はそんな単純なものではなく、非常に大きな幅があります。
底抜けに楽しいポップスから、美しいバラード、意外な実力を発揮する哀愁系の曲調まで、自由自在。洋風、和風、中華風とそれぞれ異なる味付けがなされ、まるで音楽の玉手箱のよう。当時流行の“テクノ風”で“不思議大好き。”的な雰囲気も漂いますが、いずれも普遍的に優れた楽曲ばかりなのです。
それはやはり、ポピュラリティあふれるメロディーを紡ぐソングライティング力、和洋・哀楽どちらにも合うキュートな声質、丁寧で素直な歌唱、天性のリズム感…彼女のずば抜けた音楽的資質の賜物だったことに疑いの余地はないでしょう。
しかし、驚くほど秀作と言える作品群が残せた最大の理由は、彼女自身の才能に加え、素晴らしいサポートスタッフたちに恵まれたことだったのではないかと思えてなりません。
一流スタッフとの共同作業
モップス「たどりついたらいつも雨ふり」 河合夕子をプロデュースしたのは、原盤制作を担当したホリプロ系列の東京音楽出版(TOP MUSIC PUB.)の鈴木幹治と、EPIC・ソニーの目黒育郎のコンビ。
鈴木は鈴木ヒロミツの実弟で、“鈴木ミキハル”としてモップスに在籍していたドラマー。裏方に回った後は、浜田省吾のメインプロデューサーとして知られています。ちなみにモップスもホリプロ所属でした。
売野雅勇のデビューはシャネルズ作品 また、河合夕子の楽曲は、イマジネーションをかきたてるキッチュなタイトルや歌詞が印象的でしたが、それをサポートしたのが売野雅勇。シングル「東京チーク・ガール/ルートB♭m」を除き、デビュー・アルバムからすべての詞を共作した作詞家です。
彼はコピーライター出身で、81年、河合夕子と同じEPIC・ソニーに所属していたシャネルズ(後のラッツ&スター)の作品をきっかけに本格的な作詞活動を始めたばかりだったそうです(麻生麗二はもう一つのペンネーム)。
82年に中森明菜に書いた「少女A」が大ヒット、一躍ヒットメーカーの仲間入りを果たし、数々のヒット曲を世に送り出したことは言うまでもないでしょう。
水谷のソロLP そして、河合夕子サウンドに欠かせないのが、アレンジャーの水谷公生。イメージや時代的に、ともすればテクノ系になりそうなところを、正統なポップスに仕上げたのは彼の功績でしょう。
60年代はグループサウンズのバンドでギターを担当。70年代以降はソロのミュージシャン、アレンジャーとして活動を続けていた彼は、80年からプロデューサーの鈴木が担当していた浜田省吾も手がけます。この流れで河合夕子の楽曲にも携わったのではないかと思われます。彼もまた「ルートB♭m」を除く河合夕子作品全曲のアレンジを一手に引き受けています。
町支と浜田省吾の愛奴 さらに、ポップでさわやか、高度なテクニックを駆使したコーラスも河合夕子サウンドの特長ですが、それはコーラスアレンジおよびコーラスを担当した町支寛二の力が大きいでしょう。もしかしたら、この取り組みこそが河合夕子の今日の活動に大きな影響を与えたのかもしれません。
なお、彼は70年代に浜田省吾と愛奴を結成、解散後も浜田省吾のサポートを続けるほか、90年代に自らのソロアルバムも発表しています。
このようにEPIC・ソニー時代の河合夕子サウンドは、一流スタッフのサポートを受けて構築されていったのです。だからこそ、四半世紀以上経った今でも、あざやかな輝きを放ち続けているのだと思います。
2007年10月 TAKANAKA